今年も残り少なくなった。かまびしい世間をよそに、僕は、所在なく無聊をかこっている。こんな退屈な生活も慣れてくると、快適で極楽気分になってくるから不思議だ。なによりも時間に制約されないのが嬉しい。「清貧の思想」の中野孝次氏は「人生で一番の贅沢は、多忙ではなく閑暇なことにある。」と説いている。
脳の活性化と体力を持続させようと日常を刺激的に、前向きに生きようと努力したら疲れてきた。人にはその歳によって、出来ることと出来ないことがある。老いるとエネルギーの許容範囲が狭くなるので、歳相応の振る舞いが必要である。無理をして若ぶって張り切りすぎては、身体に障り健康に良くない。
清純なイメージを裏切ることができず、いつまでも歳を取れない「美魔女」吉永小百合さんは、ひょっとしたら、人知れず悩んでいるのではないのか。(影の声:よけいなお世話よ!)しかしまあ、先の総選挙で見せた高齢な政治家先生たちの必死の奮励ぶり、ただそれだけでもう尊敬してしまう。だらしない僕など嘲弄されそうだ。
この10月で齢73歳を迎え、紛れもない老人の仲間入りをした。自分でも体力が衰え、集中力が続かなくなったと実感するようになった。衰退する体力とどう向き合って、どこに老年の幸せを見つけるかを考えさせられるようになった。そんな時、肩の力を抜いて、いい加減(良い加減)にゆるゆると過ごす楽しみを知った。今日できることも、先へと延ばし、楽しみをいつまでも残しておく。つまり、モラトリアム的な生き方もあるべき歳には必要ではなかろうか。「死ぬときは死ぬがよき候」とは良寛の言。歳を取るのを拒否して、あれこれあがくのは美的ではない。風韻の漂う自然体がよろしい。そうだ、退屈貴族になろう。
さらにいえば、僕は自らの死期を察知したとき、断食して全身からエネルギーをそぎ落とし、枯れるように死んでゆきたい。延命治療で生きながらえることはしたくない。胃に穴を開けて栄養剤を流し込む「胃ろう」などは真っ平ごめんだ。高僧のような「断食摂心」の安楽死を理想としている。もっとも、その期およんで、空腹に耐えかね命乞いをするかも知れないが・・・
今年の正月は大晦日の痛飲が祟ったのか、朝方に不整脈がでた。早速、携帯型心電計でチェックしたところ、拍動の乱れと波形の異常が確認された。
心電図からP波が消え、いわゆる心房細動の発作である。心拍数は一分間に120〜130と通常の2倍の速さ、この頻脈が3日間続いた。いつもなら病院で点滴治療をして発作はすぐに治まるのだが、生憎、正月三が日は休診であった。やむをえず苦しさをじっとこらえて自宅で静養していた。
心房細動で直接命を落とす心配はないようだが、この状態が長く続くと血液が固まり血栓による心筋梗塞や脳梗塞の恐れがある。このため僕は、坑凝固剤の新薬ダビガトランプラザキサ(商品名:「プラザキサ」)を今年の4月から服用している。従来の予防薬「ワーファリン」は納豆やクロレラなどビタミンKの多い食品は禁忌だった。納豆好きの僕にとってこの新薬の登場は朗報であった。
余談だが、心臓病の検査には心電図検査が欠かせない。しかし、異常(発作)が起きたときの心電図を測ることが重要なので、一過性のものや、たまに起きる発作を病院の心電図検査でとらえることは難しい。(引用:循環器病情報サービス)
異常が発生したときに速やかに測定できる携帯型心電計は便利だ。計測結果がメモリーカードに記録保存され、液晶画面で波形を確認することができる。異常があるかどうかは器械が自動的に判定してくれる。また、コンピューターを使って心電図をプリントアウトすることもできる。僕はこの結果を主治医に見せて、適切な判断を仰いでいる。(オムロン社製、約4万円)
そのようなわけで、正月早々、頻脈に見舞われた多難な歳となった。だが、それにもめげず、しぶとく新春歌舞伎の見物に新橋まで出かけた。鬼平犯科帳の長谷川平蔵役でお馴染みの、中村吉衛門がお目当ての役者である。粋で洒脱な台詞まわしと、重厚で格調高い演技に酔いしれた。さすがは人間国宝である。
帰路、上野駅で地下鉄日比谷線からJR線に乗り換えた。いつもならなんでもない緩い坂道と階段の歩行は堪えた。心臓の鼓動が激しく、息絶え絶えとなり、妻の助けを借りてやっとの思いで家にたどり着いた。開けて正月4日、点滴治療で元気を回復した。
そして12月入り頻尿改善のため、膀胱鏡検査を受けた。場所が場所だけに詳しい記述は憚るが、膀胱鏡検査とは直径約6mmのカメラ内臓のファイバースコープ内視鏡を尿道口から挿入して、尿道と膀胱を観察する検査のことである。
結果は前立腺肥大、前立腺癌、膀胱癌などを疑う所見はなかった。ただ、前立腺の一部が変形しており、それが膀胱を圧迫し頻尿の原因になっているようだ。しばらく薬を服用して様子を見ることになった。検査では尿道粘膜麻酔が良く効いて、痛みはほとんど感じられなかった。だがこれは個人差、医師のテクニックによっても違うようだ。
こうして「瀕脈」に始まり「頻尿」に終わった一年。洒落にもなりゃしない、まったく。嗚呼、我ながら情けない。それでもなんとかこの一年を生き延びることができた。さて来年は・・・そう言いながらも内心では「人は先、我はあと」と自分だけは長生きするのではないかと思い込んでいる。死は誰にでも公平にやってくるはずなのに。心理学ではこれを「正常性バイアス」と言っている。
近ごろ、仲間の訃報に接することが多くなった。昨年夏、高校時代の友人を失った。彼は医師であったが「医者の無養生」を絵に描いたような残念な死に方をした。前立腺癌が手遅れとなったからだ。PSA検査をしていればよかったものの、自分自身のことはまったく無頓着であった。
また、2歳年上の兄が昨年暮れ他界した。独身の兄は、僕たち家族に看取られ、感謝しながら逝った。やや早い死であったが、兄の自由を享受した生涯は、それなりに幸せであったと思う。そして今年、田舎でゴルフを遊んでもらった仲間が二人、肝臓がんで鬼籍に入った。同級生の一人は、元甲子園球児で頑健な身体であった。もう一人は2歳年下で、C型肝炎に罹ってしまった。
ともかく、身近な者との別れは悲しくて、寂しくて、辛いものがある。
話は変わるが、僕は定年少し前に非常勤職となり、千葉の在にある東金市の実家で5年間暮した。年老いた両親の面倒を看るためだ。施設に入っている母を見回り、父の食事や身のまわりの世話をした。これまで親孝行らしきことをしたことがなかったので、せめてもの罪滅ぼしの気持ちがあった。今にして思えば父と寝起きを共にした、あのころが懐かしく思い出される。そして、少しは孝行息子になったものと自負している。若いころ教育関係に携わっていた両親は、90歳を越えるまで長生きし、共に平成11年に亡くなった。来年は13回忌を迎える。
僕は、介護のかたわら余暇の善用に励んだ。地元の城西国際大学のエクステンション講座によく参加した。仲間の勤めている農業大学校の手伝いもした。畑で百姓仕事もした。
童謡「里の秋は」作詞家、斉藤信夫が、わが故郷をイメージして作ったといわれている。子供のころ遊んだ、今では荒れ放題になっている里山を復活させようと仲間に働きかけた。だが、大規模な山仕事はボランティア活動では無理だと相手にされなかった。
竹馬の友はいいものだ。昔の友人たちは、ゴルフやテニスによく誘ってくれた。畑仕事の秘訣を伝授してくれる者もいた。
実家の近くにゴルフ場が二つある。新千葉CCは車で5分、東千葉CCは10分のところにある。ゴルフ好きにはまことに恵まれた環境である。かって大橋巨泉氏はゴルフ場に近い「レイクサイドヒル」に住んでいた。僕は両コースのメンバーになった。天気が良いと仲間が「これから、ゴルフ行ってんべえ」と電話で誘ってくる。
こうして頻繁にゴルフコースに通った。だが、昔からゴルフに精をだしていながら、一向に腕前が上がらなかった。元々、運動神経が鈍く、センスが悪いためなのだろう。それでも郡市大会の予選会に出場した時、たまたま成績が良かったので、本戦の選手に選ばれたこともあった。本戦は新千葉CCのチャンピオンコース「あさぎり」で行われた。無残に敗退したものの、僕の数少ない自慢の一つになっている。
ついでに言えば、40代のころ千葉市・天台スポーツセンターを中心に行われた、スキューバーダイビング全国大会のフリッパーレース(ダイビング競技のひとつ。フィンを使って泳ぐレースのこと)に出場し準優勝した。
もっとも、読売新聞主催で行われたこの大会は大会自体がマイナーな上に、フリッパーレースは人気がなく、出場選手が四人しかいなかった。だから、あまり自慢にならない。この大会は3回をもって消滅した。その時僕は、JSDAインストラクターのライセンス保持者であった。アマチュアダイバーで運営していたこの組織は、PADIやNAUIなどの利益を追求するプロ集団に駆逐され、やがて解散した。
僕は、空気が綺麗で温暖で、海の幸に恵まれた生まれ故郷で、余生を送りたかった。けれども妻を説得できなかった。無理もない。妻は自宅で琴を教えている。自身も東京の家元に通い指導を受けている。演奏会は三越劇場などでやっている。現住所には仲間も多く、地域に密着した活動もしている。
僕の願望を叶えようとすれば別れるしかない。今流行の「歳の差婚」も悪くはないが、若い子にモテるほどの甲斐性はない。結局、不本意ながら上野、新宿まで50分と比較的アクセスの良い埼玉県久喜市が終の棲家になった。
もう一つの願望は、両親をあの世に送りだした後、海外のあちこちを一人で放浪することであった。このためカナダ、オーストラリアの語学学校で英会話を習った。ほとんど身につかなかったが、ともかく実地訓練とばかり、スコットランドのゴルフ行脚の旅に出かけた。これを皮切りに、本格的に行動しようとしていた矢先、脳梗塞に罹ってしまった。見知らぬ他国で行旅死亡人(行き倒れ)になりたくはなく、約まるところ一人旅の計画は頓挫した。この世の常とはいえ、万事願いどおりにはいかないものだ。振り返れば我が人生、平凡ながら挫折の連続であった。
筆を走らせているうちに、なんだか湿っぽい気分になってきた。だが待てよ。義理や仕来りに縛られることがなく、自分の思うとおり自由にふるまい、心穏やかな晩年を迎えられる幸せを噛みしめねばなるまい。いかなる不満があるものぞ。「小欲知足=欲を少なくして足ることを知る」の精神を忘れたら天罰があたるだろう。
暇人の戯言を、ここまでお付き合いいただいたことを深謝します。暇に飽かして「心に浮かぶよしなしごと」を書き綴り、懐旧の情に浸たってしまった。「古き善きあの日は、新しき今の喜びをより美しいものとする。」と言いうが・・・
<追 記>
今年の夏、中・東欧を旅した。旅行記をリンクしてあるので興味のある方はご覧のほど。元旦に世界中に放映されるウイーンフィルのニューイヤー・コンサートのことも記載した。
このところインド、パキスタン、モンゴルなど辺鄙な場所を好んで旅したが、病気のリスクを考えるとヨーロッパは安心感がある。
<蛇足>
わが家の前に公園がある。この公園の「あずまや」に70歳がらみのホームレスが住みついた。正月には、しめ縄を飾って快適な空間を演出していた。その人は「俺は億の金を動かすことができるのだ」と豪語していた。ある日、ベンツに乗った金持風の男が、嫌がる老人を無理やり車で連れ去った。男は老人の息子であった。この老人の自慢話は、あながちホラ話でなかったようだ。
「乞食も三日すればやめられない」と言うが、気楽に暮らすホームレスは一度やったら、やめられないようだ。老人はお金やあらゆる繋縛から自由になりたかったのだろう。「あずまや」は取り壊されてしまったので、久しく顔を見せないが、風の便りではどこかで宿無しの生活をしているようだ。この寒空で。
12月23日天皇誕生日の朝、公園にパトカー、救急車、消防自動車が集まり騒々しい。外に出て見ると入水自殺した女性の遺体をダイバーが引き上げていた。 合掌
その公園の周りを、今日もまた何事もなかったように薄暗い早朝から、憑かれたようにウォーキングに励んでいる御仁が何人かいる。僕はヌクヌクした部屋の中でTVを観ながらエアロバイクを漕いでいる。人さまざまな年の瀬である。
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